摂食障害と母親の関係「私は母に優しくしてほしかった」

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母と子

「お前はちょっと過保護に育てすぎた」
小さいころからうちの両親が私に対して口癖のように言ってきた言葉。

でも私は
「過干渉の間違いでしょう」
と言いたい。

確かに大切にしてもらっていたとは思うし、不自由ない生活もさせてもらっていた。

けれども、三姉妹の長女という立場の私は、妹たちよりも厳しく育てられたし(のちに妹に言われたことがあるが、お姉ちゃんが叱られてくれたから私たちはあまり叱られなくて済んだと言われたほど、なにかあるとひどく叱られていた)付き合う友達にしても親に制限されて悲しかった。

生活は不自由じゃなかったけれど、私にだけ厳しかったので、学校でみんなが持っているようなものすら「もったいない!」と買ってもらえず、しょっちゅう恥ずかしい思いをしていた。

そして、机の中は物色され、うちを出て一人暮らしをするまで、日記にしろなんにしろすべて見られていたことも知っている。

着る服の色も髪型も親の決めたものしかダメで、自分の意思はすべて却下(すぐに汚すからと、色気づくな!という理由で)

妹の可愛い色の服や、リボンのついた長い髪がとてもうらやましかった。

一人暮らしをやめて実家に戻ったときも、ちょっと露出の多い服を着ればやめろと文句を言われるし、なんにしろ過度に制限されすぎていたと、私は感じている。

それでも父のことは、未だに世界で一番尊敬しているし、母のことはたぶん、今まで恋愛した男たちなんかよりもずっと愛している。

そのくらいふたりとも、なにがあっても好きで好きでたまらなかった。

息子が産まれた今は息子がいちばんになってしまったけれど。

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いつも落ち込んでいるか怒っている印象の強かった母親

母と子供

子供のころ、幼い妹たちと一緒に、よく病院に連れて行かれたのを覚えている。

そこは薄暗くて、独特の香りがして、下の妹は未だに病院のにおいが嫌いで古い病院のにおいがすると気持ち悪くなってしまうほど、私たち姉妹はしょっちゅう病院に連れて行かれていた。

その理由はのちに、私の摂食障害が悪化して入院させられるという事件があって、母親と心中しかけたときにあきらかになったが(それについては母親が墓場に持っていくつもりで隠していたことなので、ここでは書かない)病院に行く母はいつも暗い顔をして、話しかけるととても冷たかった。

 

母は優しかった記憶もある。

 

けれども私に対しては、ときに冷たく、悩みを相談しても頭ごなしにバカにされることもしばしばあった。

母は気分屋の印象がある。

そして今思うと、私はかなり「手のかかる子供」だったのかもしれない。

自分の息子が今そうなので、そんな気がしている。

保健センターに発達相談に行ったら「療育」に通うことになった

母に優しくして欲しかった

母の似顔絵

妹、とくにいちばん下の妹のことが母は大好きだった。

それは真ん中の妹もそう思っていたらしく、本当にいちばん下は目の前で溺愛されていた。

どう見ても顔はいちばん可愛かったもの。

私はよく母に
「意地の悪そうな顔」
と言われていた。

学校では誰もいじめたことはなく、むしろいじめられ傾向すらあるほど誰にも逆らえず、父親からは
「お前は優しいだけがとりえ」
と言われていたほどなのに、母は私の顔についてそんなことを言った。

もともと釣り目できつい自分の顔があまり好きではなかった私は、ますます自信がなくなり、下の妹の可愛らしさがうらやましかった。

 

母は優しかったと思う。

 

けれども本当に気分で厳しいことをぽろっと言うので、ときに傷ついた。

そして気分で冷たくあしらわれるので、そのたびに自分を責めた。

 

私は母に優しくして欲しかった。

もっと笑って欲しかった。

ダイエットをして痩せたら「過干渉」が「過保護」に変わった

 

手をつなぐ親子

「もっと食べなさい!」

痩せこけた私を見てそう言う母の顔は、あきらかに心配していた。

最初はひどく怒って厳しく言っていたけれど、言うたびにムキになって痩せていく私を前にして、次第におどおどして顔色を伺うようにすらなっていた。

それが私には嬉しかった。

心配してくれて、私のすることはなんでも許してくれた。

拒食が進むにつれ食べ物への執着が酷くなり、摂食障害の子によくある
「料理をして人に食べさせる」
という行為がエスカレートしていった。

時間があると料理やお菓子を作って食べさせる。

もともと小学生のころからお菓子作りが趣味だったので、本格的なお菓子を作るのを追求し始めて、それを応援してくれるようになった。

学校の成績はビリから数えたほうが早かったのに、拒食症になった私は友達も避けるようになり、クラスで孤立した。

そして拒食により集中力がついたので、孤独な時間を紛らわすかのように勉強して成績がかなりあがった。

親から期待されるようになった。

 

過干渉から過保護になって、心配されて優しくされるようになって、私の親に対する執着が酷くなった。

休日は親を独占。

妹たちが母親と話しているだけで気に入らなかった。

妹なんていなくなればいいとすら思っていた。

両親はなにかあると私のことを心配してくれて、一日中私のことを気にかけてくれる。

とても幸せだった。

親の期待が辛くて逃げたくなった私

泣いてる女の子

拒食でいられたときは、なにもかもが完璧だった。

痩せた体。

学校の成績。

親の愛情。

親の期待。

それが過食傾向に傾き始め、少しずつ崩れ始めていく。

 

痩せていたいのに抑えられない食欲。

太っていく体。

もともと勉強なんて苦手だったから、成績を維持していくのも辛くなる。

順位が下がるたびに焦る。

親に当り散らすようになり、優しかった両親もイライラし始める。

なにもかもどうすることもできないし止められない。

それでも親の期待はなくならない。

 

私は地元の大学への推薦入学を蹴って、東京の製菓学校に入学したいと言い出した。

お菓子の勉強を本格的にしたいという気持ちはあったが、本当は逃げ出したかったという気持ちのほうが大きかった。

私のことを誰も知らない、遠くへ行きたかった。

太っていく自分に対して聞こえてくる、クラスメイトのひそひそ話も辛かった。

親に依存しすぎている自分のことも、なんだかおかしいと気づいていた。

過保護すぎるのもちょっと鬱陶しかった。

期待されすぎてももう答えられなくて、無理をしすぎたので爆発寸前だった。

もう楽になりたかった。

親から逃げて

母と子

一人暮らしをはじめて、最初はまともにやっていたが、次第に生活は崩れ始めていく。

私の人生は、最終的には人に話したらかなりひかれるくらいまでは堕ちたと思う。

「それが底だからもうこれ以下はない」と言われることもあるけれど、そしてそういう風に考えるほうが、前向きでいいともわかってはいるけれど、人生には突然消えてなくなってしまうものもあるんだと学んでしまった私は、万が一を考えることはやっぱりやめられない。

じゃないと万が一が起こったときに、立ち上がれる自信がもうないからだ。

そのくらい、摂食障害になって人生狂ってしまった。

 

そして私は、親から逃げても誰かに優しくしてもらいたかった。

愛されたかった。

拒食症のときの母親の優しさは、それまでの人生のなかでいちばん幸せを感じられたときだった。

私は男性依存になった。

散々依存して傷つけあって、ボロボロになってもなかなか離れられなかった人もいた。

それでも誰かに愛して欲しかった。

 

今でもずっと、優しさに飢えてはいると思う。

けれども今の旦那さんはそういう人ではない。

少なくとも私に対しては最初から、そういうスタンスで付き合う相手にはなってくれなかった。

なので今息子が産まれて、息子が私のことがいちばんなのがことのほか幸せ。

だから摂食障害は完全に断ち切りたい。

けれども歪んだ愛情しかわからない私が、このまままともに子供を育てられるのかという心配は常にある。

子供への正しい接し方もよくわからないし、頼れる人もほとんどいないので、そのストレスで過食嘔吐に逃げたいと思うことも、今はまだかなりある。

過去を少しだけ書いてみて

夕方の空

ただの自己満足な文章だけれど、これは私のなかでは人生の掘り起こしをしているような気もしている。

なのでこれを書きながら少し辛くなって泣いた。

依存症を治す治療法のなかに
「人生の棚卸しをする」
というのがある。

それには話を聞いてくれる相手が必要で、けれども私にはそれに最適な相手がいない。

なので依存傾向の強い私は、一生いろんな依存症を引き連れて生きていくんだと思っている。

けれどもここで見知らぬ人相手に勝手に吐き出すことは、もしかしたら棚卸しになるのかもしれない。

 

生きていくのは未だに辛い。

けれども息子がいる以上、私はこれからも生きていかなくてはいけない。

一人のときみたいに、簡単に死のうなんてできない。

なのでときどき、こんな風に勝手に棚卸しをしてみようと思う。

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